うま味の文化圏2

ー魚醤とナレズシの発生および伝播ー
 

塩辛の分布
 
魚醤やナレズシがいつ頃,どこで発生し,どのように伝わったのかを明らかにするのは難しい。というのも、文字の記録がある前からつくられていたと考えられるからである。これまで明らかになったことから総合して考えると、東南アジアのタイのメコン川の流域、それに接する中国の西南部で水田の稲作が始まり、その中で魚醤ができたと考えられる。これらの地域は内陸の塩が得られる地帯でもあった。魚醤は水田稲作とともに伝わり、日本では弥生時代に水田稲作とともに塩辛系の食品やナレズシが伝わったのではないかと考えられる。図●では伝統的に塩辛をつくる地帯を線で囲んである。現在ではなく16世紀頃をイメージして作成したものである。
 
点線部の,現在は消滅した場所にあたる中国では、紀元前後からの記録から推測すると古代から魚醤が食べられていた。中国で食べられていた塩辛系の魚醤は、ただ魚と塩を混ぜてつくるものではなく、麹を使った酒造りの技術が取り入れられたものであったらしい。塩だけでなく麹も少し使って発酵を促進させたのである。やがて、香辛料を使ったものや、紅麹という赤い色の米麹を使った赤い塩辛もつくられた。しかし、中国では時代が下るにつれて生ものが食べられなくなり、塩辛も生で食さなくなり、ナレズシも中国で南宋の時代頃から食べられなくなった。今では少数民族の中でだけナレズシが残っている。魚醤、ナレズシに替わり、穀醤あるいは豆醤という味噌・醤油がつくられるようになったが、これらは魚醤をもとにしている。魚の代わりに大豆を煮たものを使ったのである。魚醤は一時期に原料となる小魚の漁獲が集中するので、新鮮なうちに処理する必要があったが、大豆やコメは保存できる上に生産地と消費地が離れていても輸送が簡単で、好きな時に加工できる。塩と穀類,麹を混ぜておくと味噌や醤油のもとのような醤(ひしお)ができる。大豆やコメだけでなく、ソラマメなどでも味噌のようなものをつくることができる。こうして、穀醤や豆醤がうま味と塩味のもとに取って代わった。


小エビ塩辛ペーストの分布
 
図●は、小エビ塩辛ペーストの分布を示す図である。点線で囲んだ中国の沿岸部と,実線のその他のインドシナ、ジャワ島につながるところ、フィリッピンとボルネオの一部に分布している。中国が点線の理由は、製造法が中国と東南アジアとでは違うからである。中国型の小エビ塩辛ペーストは小エビに塩をして大変長い間保存し、小エビが分解されて、殻も小さく割れて小エビの形が残らない、味噌状の塩辛になる。これを蝦醤(シャージャン)という。日本のアミの塩辛、朝鮮半島のセウジョッ、ルソン島のバゴオン・アラマンなどと製造原理はおなじである。液体部分は小エビ醤油になる、小エビ醤油も小エビ塩辛ペーストも中国流のシャブシャブなど羊肉の調味料としてよく使う。
 
これに対して東南アジア型は、急速に腐りやすい小エビを、取りたての状態で乾燥させて干しエビにしてからすりつぶしたり、つきつぶしたりする。塩をしてから干すもの、干してから塩を加える場合もある。つぶしたものをペースト状に加工する。もしくは生乾きの時につき砕いてペーストにしてから干す方法もある。この時に出る液体を小エビ醤油にすることもある。いずれにしても乾燥という工程が入る点が蝦醤と異なる。

 
魚醤油の分布
 
魚醤油(さかなしょうゆ)の分布は、日本、中国では福建、広東、海南島、かつては山東半島でもつくられていた。またインドシナ半島一帯、フィリッピンではルソン島である。魚醤油の起源を文献的にたどることは困難で、歴史は不明な部分が多い。現在はルソン島、カンボジア、ミャンマー、タイなどで大変な使用量にのぼり、魚醤油は昔からあったように考えられている。しかし、塩辛をつくる地帯で塩辛の汁を調味料に使うことはよく行われていたと思われるが、副産物ではなく最初から液体にさせるつくり方が普及したのは新しい時代になってからのことである。タイでは数十年前、フィリッピンでは商業的につくり出したのは20世紀になってから、ベトナムのニョク・マムは文献上にみられるようになるのは18世紀の中ごろとされる。20世紀より前に魚醤油があったのは、日本と中国とベトナムだけであった。

 
ナレズシの分布
 
04.png
ナレズシは、米飯だけなく粟飯や雑穀を使う地域や台湾ではイモ類でつくった記録もあるが、米飯が圧倒的に多く、米と縁が深い食品である。ナレズシの伝統的分布を見ると、初期の水田稲作地帯とほぼ一致する。水田稲作地帯では、水田漁業という、水田や水田につながる灌漑水路や水たまりにいる淡水の魚介類を農民が自家消費用として採集する漁業が行われる。こうした魚とコメがセットになった水田漁業からナレズシが生まれたと考えられる。東南アジアから日本にいたる一連の水田耕作地域では水田漁業が分布しているが、東南アジアは特に盛んである。既に述べたように、雨季に水田が冠水し河川とつながり、水田地帯に魚が集まって産卵をするので漁業資源が豊富だからである。魚醤とナレズシは兄弟のようなものである。東南アジアの中でも、メコン川の中上流域、東北タイとメコン川をはさんだラオス南部の地帯がナレズシおよび魚醤のセンターであり、魚醤とナレズシはここで発生して、中国や他の東南アジアに伝播したものと考えられる。日本のナレズシも恐らく水田耕作といっしょに、中国から伝えられたものであろう。

ナレズシと稲作がともに入ってきたとすると、現在の朝鮮半島でナレズシがあるのは北部と東海岸の一部だけで、南部の伝統的稲作地帯にはナレズシは存在しなかったことから、日本へはいってきた稲作のルートと朝鮮半島に入ってきた稲作のルートは違う可能性がある。

中国では、先に述べたように古代から漢族がナレズシをつくっていたが、時代がたつにつれ食べられなくなり、10世紀頃を境にして減っていった。200〜300年前では広東省で食べられていた記録があるが、現在の中国では西南部の少数民族がつくるのみである。現在もナレズシが中国西南部に残されていることから、中国へは東南アジア方面の民族から伝わってきた可能性がある。

 
05.png
穀醤卓越地帯と魚醤卓越地帯
 
古代中国での魚醤づくりは塩をした魚に麹を加えて発酵を促すと述べたが、同じ製造法で肉を材料として作った肉醤も食されていた。しかし、漢の時代頃から魚醤,肉醤の代わりに大豆や穀物に熱を加えたものを原料とする醤、つまり穀醤づくりの技術が生まれた。これが味噌、醤油の先祖にあたる。その後,穀醤は東アジア、すなわち中国,朝鮮半島,日本で発達した。日本は中国の食文化が入ることで,かつてあった魚醤文化が消え、味噌,醤油を主な調味料とする文化になった。しかし、東南アジアでは近代まで穀醤の技術が伝わらず、魚醤とスパイスが味付けの主流となった。東南アジアは魚醤を調味料の中心とするいわば“魚醤卓越地帯"、東アジアは穀醤を中心とする“穀醤卓越地帯"といえる。この2つの地帯は塩味とグルタミン酸を共有する“うまみの文化圏"を古くから確立していた。

塩辛は大豆や穀物を発酵させたモロミに、塩辛ペーストは味噌類に、魚醤油は醤油に対応し、ほぼ同じ用途に利用される。原料や製法の違いを超えて、食生活における調味の共通性が東アジアと東南アジアに存在する。その共通性は非牧畜、水田稲作地帯の食事パターンに根ざしているように思われる。
 
 
魚醤と古代ローマの魚醤油との関連
 
古代ローマでもリクアメンあるいはガルムと呼ばれる魚醤油があり、調味料として使われていたことがアピキュウスの料理書などの記録から知られている。製法は様々あるが、基本的に魚やエビなどに塩をしたものを素焼きのカメに入れて太陽のもとに置いておく。長い間塩辛状にして溶かして、それを濾して液体を料理の味付けに使う。ローマの滅亡とともに失われたが、原因は不明である。初期はイタリア半島でつくっていたが、領土が拡大されるとアフリカや西アジアなどの植民地で作り、運んだ。その痕跡は、ポルトガルやスペイン、イタリアなどでよく使われるアンチョビとして残っている。アンチョビは油漬けの缶詰が多く出回っているが,漬けないものも売られている。アンチョビペーストはいわば塩辛ペーストである。このように魚醤が細々と残っている。東アジア、東南アジアからローマへ伝わったのか、その逆かは記録が残っておらず、明らかでない。東アジアとイタリア半島の間の広大な地域で魚醤はつくられていないので、両者は関係なくそれぞれの地域で発生したと考えてよい。
うま味の文化圏2