麵のふるさと中国

粉食と粒食

穀物の食べ方を大別すると、粉食と粒食にわけられる。粉食作物の代表はムギ類で、ユーラシア大陸の西側では粉にしてからパン類に加工される。ユーラシア大陸の東側では、コメを煮たり蒸したりする粒食が原則であった。中国古代の粉食の歴史を振り返ってみると、紀元前4000年以前の華北平野の早期新石器時代には、アワが主作物とされていたと考えられている。華北平野は、黄河と淮河(わいが)の流域をむすぶ地域であり、漢代以降の中国におけるコムギの主産地であるが,コムギが栽培されるようになる以前はアワが人々の食生活を支えていた。

早期新石器時代にアワが粉食されていたと考える有力な証拠に、淮河流域から発見されたすりうす(saddle quern)があげられる。すりうすは,大きな板状の下石と、下石の幅程度のながさをした上石のセットからなりたつ。少量の穀物を下石におき、両手でにぎった上石を前後にゴリゴリと動かして挽きつぶす。すりうすは、アワを粉食にするために使われていたと考えられる。

ところが、仰韶(ぎょうしょう)文化、大汶口(たいぶんこう)文化に代表される中期新石器時代になると、アワを主作物とすることに違いはないものの、すりうすが姿を消してしまう。そのかわりに、穀物を煮たり、蒸したりするために使用されたと考えられる土器の種類が多数発見されている。なぜ、このような変化がおこったのかについての原因は明らかではないが、粉食から粒食への転換があったことは確かであろう。


コムギとシルクロード
 

09829.jpg石製の製粉機
 

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早期新石器時代の粉食から中期新石器時代の粒食への転換がおきた中国において、再び粉食が復活するのは、コムギを食べるようになってからのことである。コムギは、紀元前7000年頃のメソポタミアで栽培され、そこから世界各地に広まっていった作物だと考えられている。中国の華北平野でコムギの栽培が本格的になされるようになったのは,前漢の時代からで、前漢の少し前の時期にあたる河北省邯鄲(かんたん)の戦国時代(紀元前403~前221)の遺跡から回転式の石臼が発見されている。続く秦代から前漢へと時代が下るにつれて、回転式の石臼の発見例が増えており、これらの石臼はコムギの製粉に使用されたものと考えられている。

中国の発掘報告書にあるこれら石臼の実測図をみてみると、上臼、下臼ともに接触する面に溝が刻まれており、現在の挽き臼と原理的にはまったく同じ構造であることがわかる。この型式の臼は、紀元前1000年頃、西アジアのコムギ作地帯で発見され、古代ギリシア・ローマで発達したものとみられている。こうしてみると、コムギを栽培する技術、コムギを粉にして食べる技術がセットになって西方から中国へと伝えられたと考えられるのである。シルクロードを通って、コムギの粉食が戦国時代に伝えられ、漢代になって普及したのである。

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コムギ粉が店頭にならぶ(中国)
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万里の長城の最西部に位置する嘉(か)峪関(よくかん)は、シルクロードの要衝のひとつでもあった。



麵と餅
 
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麵条
中国で麵(ミエン)といえばコムギ粉のことである。のちには意味を広げて、ほかの穀物の粉にも使われるようになり、アワの粉は小米麵、キビの粉は黄粉麵を表しているが、ただ麵と書いてある場合には原則としてコムギ粉のことである。そのため、麵食といえば、コムギ粉でつくった食品やそれを食べることを意味する。日本でいうところの麵にあたる、コムギ粉をほそ長く加工した食品は,麵条(ミエンテイアオ)や麵(ミエン)条児(テイアオル)とよび区別するのが原則であるが、現代中国語の方言では,うどんなどのほそ長く加工された麵のことを麵条ではなく、たんに麵とあらわす地方もおおくある。

餅は中国語ではビンと読むが、餅(ビン)はコムギ粉である麵(ミエン)を原料としてつくった食品のことをいう。現代中国の百科事典である『辞海』の「餅」の項には「古代麵的通称」とある。つまり、中国の古代にはコムギ粉でつくった食品をすべて餅とよんでいたのである。また、後漢の末期(2世紀頃)に成立した字書である『釈名(しゃくみょう)』には、餅がこう説明されている。「餅は并である。麵をこねて合并させるのである。」このことからも、コムギ粉(麵)に水を加えてから、練ってかたちつくったものが餅とよばれる食品であったことがわかる。


餅の4つの料理法

①蒸(ツエ)餅(ビン)

現在の食材でいえば,饅頭(マントウ)、包子(パオズ)、焼売(サオマイ)などのように、セイロで蒸してつくったもの。蒸餅という名称は、『釈名(しゃくみょう)』にも登場する。新石器時代の土器には,蒸し器が多数発見されていることから、中国において「蒸す」という料理法は非常に長い歴史をもっている。現代中国語では,なかに餡が入っていないものを饅頭といい、肉餡や甘い味付けをした餡をつめたものを包子という。
 
②焼餅(サオビン)

現在の煎餅(チエンビン)、焼餅(サオビン)の類で、鍋で焼きつけたり、直火であぶったりしてつくるもの。中国の煎餅は、コムギ粉をうすくのばして,油を塗ったたいらな鍋で焼いてつくる。焼餅は、コムギ粉を練って円盤状にしたものを、炉の内壁にはりつけて焼いてつくる。焼餅の製法は、西アジアの伝統的なパン焼きに共通する料理法であり、シルクロードを経由して最初に中国に伝えられたコムギ粉食品は、焼餅の祖先のようなものだったかもしれない。片面に黒ゴマをまぶしてつくった焼餅の一種を胡(フウ)餅(ビン)、あるいは芝(ツー)麻(マア)焼餅(サオビン)とよぶ。なお、胡餅という名称も『釈名(しゃくみょう)』に登場する。
 
③油(イウ)餅(ビン)

油(イウ)条(ビン)、饊子(サンツー)などのこと。油条とは、コムギ粉に明礬やかん水を加えて、やわらかく練った生地をねかせてから、ねじりん棒の形にして油揚げにしたもの。そのまま食べたり、薄切りにして中華粥にうかせたりする。饊子は、コムギ粉を麵条のように細く延ばして、油揚げにした菓子食品のこと。同様のものを、新疆ウイグル自治区のウイグル族はザンザと呼ぶ。『斉民(せいみん)要術(ようじゅつ)』には、「環餅(かんぺい)、一名寒(かん)具(ぐ)」という名称で登場する、コムギ粉を密またはナツメの実を煮た汁で練ってつくる食べ物がその起源であるとも言われている。現在の北京の露店でもよく見かけるスナックの麻花も油条や饊子の系統だと考えられている。
 
④湯(タン)餅(ビン)

茹でたり、スープで煮たりしたコムギ粉食品のこと。麵類や水(スウエ)餃子(イチヤオツー)、饂飩(ホウントン)がそのたぐいの食品である。湯餅の名称も『釈名』に登場する。『釈名(しゃくみょう)』は2世紀の後漢末期に成立した書物であることから、その頃にはコムギ粉食品のさまざまな調理法が発達していたことがわかる。
 
 
コムギ粉食品の分類
 

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麵片(ミエンビエン)の代表格 棋子(きし)麵(めん)と饂飩(こんとん)

麵片(ミエンビエン)は、ひらたくのばしたコムギ粉をそのままゆでたり、煮て食べたりするものと、のばしたコムギ粉で餡をくるんで料理するものとに分類される。ひも状に加工せず、平たくのばしたものを、そのまま茹でて食べるものに棋子(きし)麵(めん)がある。棋子麵は、6世紀中頃(北魏末~東魏の間あたり)に書かれた現存最古の農書である『斉民要術(せいみんようじゅつ)』に初出する。『斉民要術』には,「切麵粥、一名碁子麵」とあり、コムギ粉をこねて小指ほどの細さにしたものに、とり子をつけ、太めの箸のようにのばしてから刃物で裁断するとある。その後、方形の将棋の駒のようなかたちにする。将棋の駒のような形状になった麵は、蒸してから冷まし、乾燥させて保存する。これを使用するときには、ゆでてから肉のスープを注いで食べると記されている。

小さく薄く成形された碁子麵は、芯まで乾燥させることが可能であったため、乾麵として利用されていたことがわかる。碁子麵は棋子麵ともよばれ、宋代に流行したことでさまざまな料理法が記録されている。しかしながら、管見のかぎりではあるが、明代の家事百科事典である『多能鄙事(たのうひじ)』に登場したのを最後に、棋子麵という名称は料理書から消えてしまう。

麵片(ミエンビエン)で肉、魚、野菜などの餡をつつんで、煮たものを華北では饂飩(ホウントン)とよび、広東省では雲呑(ワンタン)という。明治時代以来、日本で中国料理店を開業した中国出身者には広東人がおおかったため、日本ではわんたんという名称が定着した。ひとくちに饂飩と言っても、いったいどのような形状をしたものだったのだろうか。隋代(581年~619年)の顔之推(がんしすい)は、「今の饂飩は形偃(えん)月(げつ)の如し。天下通食す」と書いている。また,唐代(618年~907年)の韋巨源(いきょげん)の『食譜』には24気饂飩なるものが記録されており、24種の餡をそれぞれ花形にくるんだものだと推測できる。

隋代、唐代の2つの例から考えてみると、当時さかんに食べられていたふつうの饂飩は、円形の麵片に餡をくるんで二つ折りにし、半月形をしていたと考えられる。また、饂飩はゆでて食べるものであったことから,今の水餃子のような食べ物であったといえる。
 

水引(すいいん)餅(べい) 

水引(すいいん)餅(べい)は、中国における麵の祖先だと考えられている。『四民月令(しみんがつりょう)』は、後漢の崔寔(さいしょく)(103年前後―170年)が記した中国最古の歳時記で華北平野が舞台となっているが,この書物の6月の項に、煮餅(しゃへい)、酒溲餅(しゅそうへい)、水溲餅(すいそうへい)の3種類の餅の名称が登場する。3つのなかで唯一麵(ミエン)条(テイアオ)なのが水溲餅(すいそうへい)で,水引餅(すいいんべい)と同様のものであるという見解がある一方で,水溲餅(すいそうへい)も煮餅(しゃへい)、酒溲餅(しゅそうへい)のように蒸してつくるパン状の食品であるため,麵条(コムギ粉をほそ長く加工した食品)とは認めがたいという説もある。
 
水引餅の作り方は、『斉民要術』(530年~550年成立)に記されている。この書物の9巻「餅法」という章には、さまざまなコムギ粉食品の作り方が記録されている。その中に、水引、餺飥(はくたく)という箇所があり、水引餅を意味している。これは、麵の具体的な作り方が記されている世界最古の記録である。(『斉民要術』以前にも、水引餅に関する記載のある書物があるという説もある。)簡単に水引餅の作り方を紹介しよう。
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①ブタの赤身肉のスープに飲み加減の塩味をつける。
②スープが冷えたら、コムギ粉に加えながらこねる。
③1時間ほど麵記事をねかせたのち、手で箸の太さにのばす。
④両手をつかい、ほそいひも状にのばしたものを、1尺(当時は1尺=24㎝)のながさに切る。
⑤④を2〜3分水に浸してから、指もみをしばがらのばす。ニラの葉のような薄さにする。
⑥のばした麵を沸騰したスープに入れて、出来上がり。

水引餅は、名前にあるように水に麵を浸すことが重要な点である。水に浸して麵つくりをする技術は、のちの宋代、元代にまで引き継がれる。宋代に書かれて元代に発行されたといわれている『居家必要事類全集』には、水滑麵なるものが登場する。

 
南宋における麵文化の完成

宋代以後,麵(ミエン)条(テイアオ)(コムギ粉をほそ長く加工した食品)を使用した料理名は、○○麵と書かれるようになる。宋代に麵が料理の1カテゴリーとして独立したのは、この時代に麵が中国全土に普及し、大衆的な食べ物になり、さまざまな種類の麵料理がつくられるようになったからではないかと考えられる。

北宋が敗れて、都が陥落したときに南方へとのがれた孟元老が、かつての首都の繁栄ぶりを偲んで記した『東京夢華録(とうけいむかろく)』という書物がある。この書物には、さまざまな料理店が軒をつらね、人々が外食を大いに利用し楽しんでいた様子が描かれている。『東京夢華録』には、肉と麵の両方を椀にもった合(ごう)羹(かん)といわれる麵類や、肉か麵のいずれかだけを椀にいれて食べる単羹(たんかん)といわれる食べ方が記されている。ここで注目すべきなのは、「旧くは只匙を用い、今は皆筋を用う」と述べられていることである。北宋の時代には、スープ料理にいれられていたコムギ粉食品は、塊状に成形してあったのが、南宋の時代になると麵条をつかうことがおおくなったために、箸が必要になったと推測できる。

北宋が滅んだことで、北方で発達した麵食文化は江南の南宋へと人の移動とともに流入することとなった。そのため、江南でのコムギ栽培面積は増加したし、北宋の旧都名物であった羊料理が南宋においても食べられるようになった。また、コメを原料にした麵やそうめんの製法も南宋には存在していたことを踏まえると、南宋代をもって、中国の麵文化はほぼ完成したといえる。
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