麺食文化のミッシング・リンクをさぐる

中国とイタリアをつなぐ食品イットリーア

中国に起源し、西方はカスピ海までにつらなる麵食文化のチェーンと、イタリアで発達し、その後ヨーロッパ、アメリカに伝わっていった麵食文化のチェーンは、お互いに無関係に発達してきたようにみえる。しかし、もし、西アジアとイタリアの間のいわば麺の研究の空白地帯に麵つくりの歴史があったとすれば、それは東西の麺文化を一本のチェーンにつなげる「ミッシング・リンク」といえるのではないだろうか。

このミッシング・リンクの役目をはたす可能性が高いものが、シチリア島でつくられたというイットリーアitriyyahである。イットリーアに関する文献は、イタリアではみつからないが、アラブの麵食文化の記録をひもとくことで、何かみえてくるはずだ。


 
アラブの麵食文化 シャアリーアとフィダーウシュ
 
アラブの食品のなかで、アジアの麵類に近いかたちで、主食的な使われ方をしているのが、シャアリーヤである。中央部がややふくらんだ長さ1、2センチの形状をしている。13世紀のイベリア半島とモロッコの料理について書かれているアラビア語の文献に登場するフィダーウシュは、短い麵状のパスタである。このフィダーウシュfidawsは、モロッコのシャアリーアと同じつくり方をしていることから、同じものだと考えられるだろう。フィダーウシュという名称がイベリア半島の料理にみられるのは、長年にわたるイベリア半島におけるアラブの支配のためであろう。また、イタリア語で非常にほそい押しだし麵のことをフェディリーニというが、リグリア地方(州都はジェノヴァ)のパスタの前身といわれているフィデルリfideluriに関係していることは間違いない。そして、ジェノヴァが、十字軍時代以後にイスラム商人との東方貿易によって繁栄した海港都市であったことも考慮にいれると、アラブの麵の名称とイタリアのそれとが一連のものであると考えられる。

 
中世のアラビア語文献にみるイットリーヤとリシュタ
 
11世紀のペルシアの哲学者で医師であるイブン・シーナーの著したアラビア語文献のなかから見いだせるイットリーヤitriyyahは、「革ひものかたち」をしているもので、リシュタrichtaと同義語であるとされている。リシュタとは、ペルシア語で「糸」という意味を意味し、現在のウズベキスタンの地域をはじめとするペルシア文化圏にもすでにひもかわうどんのような麵が存在していたといえる。つまり、アラブ文明圏のイットリーヤは、その東のペルシア文明圏のリシュタであり、10〜11世紀の中央アジアにも存在した食品だったといえるのである。シチリア島からはじまったイットリーアの詮索は、中央アジアへとその道すじを示しだしたといえる。
 
イットリーア=リシュタ系のパスタは、麵状のかたちをした乾燥パスタである。イットリーアとリシュタが同じ食品であるとするならば、かつては中央アジアから、ペルシアをとおって、北アフリカ、イベリア半島、シチリア島にいたるまでの一連の地帯に、広大な分布をもっていたことになる。しかし、現在この地帯の麵食文化はさかんとはいえない。なぜだろうか。

 
ミッシング・リンクをつなぐ仮説
 
東西の麵食文化をつなぐミッシング・リンクとしてイットリーアに注目してきたが、アラブ文明圏のイットリーアとペルシア文明圏のリシュタの関係から、こうは考えられるのではないだろうか。ペルシャからリシュタがアラブに伝えられ、アラブの西進とともに、地中海,イベリア半島にまでイットリーヤという名称の食品として伝播した。しかし,、食物を手づかみで食べる西アジア、アラブの食習慣では麵状の食品は食べづらかった。そのため、手づかみに適したシャアリーヤや、マグレブ地方のクスクスが優勢となり麵食は重要な地位を占めなかった。
 
イブン・シーナーの文献から、11世紀には中央アジアでリシュタなる麵が食べられていたとするならば、中国起源の麵食文化がウイグル族からウズベク族に伝播する以前から、中央アジアにはより古い麵食の伝播がなされていたと考えられる。このように11世紀以来の麵食文化が存在した中央アジアを、アラビア半島におこったイスラムが勢力下においたこと、そして唐の長安とビザンチン帝国のコンスタンティノープルをむすぶシルクロードの東西交易の歴史をとおして、アラブ文明圏のイットリーヤ=リシュタ系のパスタが中央アジアにおいて中国起源の麵に接続するという仮説が成立するのではないだろうか。
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